カテゴリー「仕事のエピソード」の記事

雑誌の表紙リニューアルの想い出(笑)

昨年2007年末に、「編集後記の想い出(笑)」というゆるいネタの記事を書いたところ、思いも寄らぬ反響をいただきました^^; またぜひ、という声もあったので、似たテイストの話しを書いてみます(引き続き今回も、ものすごくどうでもいい話しです^^;)

前回は、当時勤務していた出版社の音楽雑誌編集部で、雑誌リニューアルに伴い編集後記がなくなってしまった顛末を書きました。今回は、その同じリニューアルのときの、表紙デザインの話しです。

【会議室には、A案、B案、C案が。。】

「表紙デザインのラフカンプ(本採用前の案)が上がったので、編集部全員集合!」という号令がW編集長からかかりました。W編集長は書籍編集経験の長い、昔ながらの昭和のタタキ上げ系編集長。当時、40代の中頃だったかと思います。

会議室のドアをあけると、そこには、コンペで依頼した3つのデザイン会社があげてきた、A案、B案、C案の表紙デザインが置いてありました。

明らかにA案は時代錯誤。古ぼけてくすんだ印象でした。いっぽうB案、C案は甲乙つけがたく、どちらにころんでも、まあまあのものができそう、と感じました。集まっていたメンバーからも、A案はないよな、という声がすでにあがっていました。

W編集長が来て、会議は始まりました。それぞれが、B案とC案を支持する意見を言い始めました。そんななか、なぜかO主任ほか数人は、黙ったままです。その後、ではB案とC案のどちらがいいか、という議論になっているなか、W編集長はおもむろに言いました。

「このA案は、Sさん(書籍デザインの第一人者)の案で、○○な意図が込められているんだ。青山(私の仮名)、どう思う?」

シンとするみんな。若かった私は、思ったままを言いました。

「ずいぶん古い雑誌を見ているようです。リニューアルをしようとしてるときに、何で昔に戻ったようなデザインが出てきているのか、意味がわかりません」

20代の中頃で最年少だった私は、編集者としてはまだまだ未熟でした。がいっぽうで、その音楽雑誌の読者は、10代から20代前半。読者層にいちばん近い存在ということで、様々なシーンで参考意見を求められていた気がします

その後、リニューアル案は、B案に決定しました。私も、妥当な結果だと感じました

【翌日の午前。。】

そして翌日の午前、階段で隣の編集部のN先輩とすれ違うと、先輩は、それはそれは嬉しそうに私に話しかけてきました

N先輩 「おい青山、お前、W編集長イチオシのデザイン案を、ボロクソ言ったんだって?」

私 「え?? 何のことですか?」

N先輩 「昨日の会議だよ。W編集長は、懇意にしているSさんのデザイン案をえらく気にいってて、俺たちにもこれで行く、と言ってたんだ」

私 「Sさんのデザインって。。?」

N先輩 「お前に切り捨てられるように言われて、W編集長、がっくりきてたよ。なかばあれに決めかけたのにな。お前もなかなか言うもんだな~(笑)」

私 「え、もしかしてあのA案ですか!?」

N先輩 「そうそう。確かに微妙だったけどな(笑笑)」

私はかなり青ざめて、編集部に戻ると、O主任に詰め寄りました。

私 「O主任、昨日のA案って、編集長のイチオシだったんですか?」

O主任 「そうだよ。お前もなかなか、厳しいこと言うよな~(笑)」

私 「何言ってんですか! 感想求められたから、言っただけですよ!(怒) あれ、もしかしてO主任は、編集長があれを気に入ってるって知ってたんですね? だからいつもは口数多いのに、昨日に限って黙ってたんですね!? そうだ、他の何人かも!」

O主任 「誰が口数多いんだよ。でもそりゃあさ、事前にちらっと見せられて、いいだろう、って言われたら何にも言えないだろう(笑)」

私 「そんな! そしたら何で僕にも教えてくれないんですか!」

O主任 「だってさあ、みんな黙っちゃって、あれに決まったら大変だろう(笑)。しかしお前の存在感もたいしたものだな~。お前のあの一言で、デザイン決まっちゃったもんな~(笑)」

あまりのことに、私は茫然自失。。そこへやってきた編集長、心なしか、私の目を見てくれないような気がしました。。

その後、O主任はその出版社の取締役にまで出世、私は数年後に退社することになりました。20代の私は、そのとき「立ち回り」という言葉を覚えたのでした^^;

また、表紙の編集作業は編集長管轄だったのですが、数ヶ月すると、だんだん表紙はA案に近づいていったのでした。。^^;

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編集後記の想い出(笑)

今回は、まったくどうでもいい話しです。(いつもそうかも?)

今から遡ること、20年。20代まっただなかのわたくしは、とある音楽系の出版社に勤務しておりました。その会社ではクラシック音楽関係の月刊誌やポピュラー音楽関係の隔週週刊誌などを10誌ほど発行していました。

わたくしの同期入社は7人。入社時は、皆が憧れる雑誌編集部への配属は一人もいなく、全員がいつか雑誌に異動したいと切に望んでおりました。

それはもちろん、雑誌編集がやりたかったからですが、同時に雑誌に異動すると「編集後記」が書ける! というのも大きかった。

なんじゃそりゃ? と思う方もいらっしゃると思います。今でこそ、こんなふうに誰でも書きたいことを書いて世の中に発信できるような時代になりました

でも20年前は、インターネットなんてものはなかった。何かを人に伝えるにはマスコミを、何かを読んでもらうにはその中の新聞・雑誌を通すしかなかったのです。

とはいえ、署名原稿を書けるような著者・執筆者になるには長い道のりが必要。そんななか、手っ取り早く自分の日常や思ったことを綴るには、雑誌編集者になってこの「編集後記」を書く、というのが最も速い手段でした

さて入社2、3年が経つと、同期のうち、一人、二人と雑誌編集部へ異動する者が出てきました。わたくしも3年目の夏、7人中3番目にポピュラー雑誌の編集に異動が決まりました。

やった! 編集後記が書ける!! それは大きな楽しみでした。

今でこそ、そんなものを隔週で書かなければならないとなったら、かなり面倒な話しです。が、当時はこれが嬉しくてたまらなかった。

毎隔週、次に何を書くか、前もってずいぶんと考えた。わずか100字程度のなかに、どれだけの自分のエッセンスを盛り込むか。。なにしろ、読者は多い号で15万人もいるのだし、下手なことは書けない! と自意識過剰の極みな感じでした(笑)。

そうして何回か編集後記を書いているうちに秋になり、その雑誌は大リニューアルをすることになりました

同期で同じ編集にいて、やはり編集後記に燃えていた友人Sと二人、心配がつのります。編集長は、編集後記のことをどう考えているのだろうか。

ただでさえ、編集者が誌面に出ていく当時流行りの現象をひどく嫌っていたM編集長。「ギョーカイ」というトレンディ(笑)な言葉も大嫌いだったM編集長。

何度も続いたリニューアル編集会議も終盤。いっこうに編集後記の話が出ないのにしびれを切らした友人Sがおずおずと発言しました。

「あの~編集長、編集後記はどうするんですか?」

編集長は、そんなことは全くどうでもよかったのだと思います。想定外の質問に一瞬間をあけながらも、こう答えた。

「ん。。まあ、いらないんじゃないか」

友人Sとわたくしは、気色ばんで真っ正面から抗議した

「いや、読者は編集後記を楽しみにしています」

「読者は業界関係者の様子を知りたがっています!」

するとM編集長は、開き直った

「今回のリニューアルはとにかく情報量を追及する! どんな小さいスペースでもとにかく情報優先だ!」

そして苦笑いして言った

「俺の目の黒いうちは編集後記は載せん。まあ、俺が編集長から下ろされたら次の編集長のときは載せるように頼もう」

実はどうでもよかったことを、まともに会議の議題にしてしまったがために、こうして編集後記の廃止はオフィシャルに決定してしまった。

あれから20年。もしあの時の自分が今の自分だったら、会議の席では話題にのぼらないように友人Sと打ち合わせ、リニューアル号のレイアウト時にこっそりデザイナーに指示して、編集後記のスペースをとってしまっただろう。ああ若いって知恵がない!

それから3年半、発行部数がじりじりと下がるなか編集長は異動になり、本当に編集後記が復活しました。しかし、なんと友人Sは、そのタイミングで編集後記のない月刊誌に異動になってしまいました^^;

自分はようやく再び編集後記を書けるようになったものの、その雑誌はその後1年で休刊してしまったのです。

あれから時代も変わったし、自分も変わりました。でも、何か書いていたい欲求は変わらないので、こうしてブログを書いたり日記や小説を書いたり、仕事でも原稿を書いたりしています

なんとなく想い出したので、こんな話しを書いてみました。しかし、20年前のこんなどうでもいい話しをよく克明に覚えているものだなあ。

お付き合いいただき、恐縮でございました^^;

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大阪へ。

07052828日は、大阪まで日帰りで往復した。東京で生まれ育つと、大阪は仕事以外では縁遠い子どものとき以外、全部出張のような気がする。ちょっと思い出してみると、

1970.9 大阪万国博覧会(日帰り)

1989.4 工藤静香ライヴ取材(1泊:カメラマンと道頓堀周辺を探索)

1990.8 中島みゆきライヴ取材(1泊:堂島でレコード会社の接待)

1997.5 大学生向けセミナー(1泊:梅田で飲み)

1998.5 同上(2泊:梅田と心斎橋近辺で飲み)

1998.12 大阪の出版社と提携交渉(とんぼ帰りで板橋まで出張校正へ)

1999.5 大阪の製本所から書籍の発送作業(終了後、大阪ディープゾーンに潜入後日帰り)

2007.5 企画打ち合わせ(今回/すぐ帰り)

という感じ。やはり大人の7回は、仕事ばっかりだ。いまだに、大阪はよくわかりません^^;

さらに、新幹線に乗るのもひさびさ。のぞみが増えてひかりが減ったものだ。昔は、のぞみは管理職だけが乗れるとかいう時代もあったのだが(笑)。しかしこれだと、

昔の<ひかり→こだま→在来線特急>が、

のぞみ→ひかり→こだま>になっただけのような気がしますが。。

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思い出の(やけくそな)年末(3)

ミレニアムの年末。12月中旬に、全社の次年度の事業計画の発表会があった。

そこには、自分が約1年半にわたって現場のリーダーとして推進してきた新事業プロジェクトの姿は、影も形もなかった。自分の上の要職者たちは、すでに次の居場所を確保していた。誰に何を聞いても、納得のいく回答は得られなかった。

喪失感と不信感と先行き不透明感に苛まれ、その日から何もやる気にならず、飲んで夜遊びの毎日。。

14日:神楽坂の焼肉屋にて、前の会社のテニス部忘年会に参加

15日:同僚と会社近くのファミレスで飲み

16日:研修会の流れで青山のイタリアンでアーリークリスマスディナー

17日:(日曜で自宅近辺で飲み)

18日:編集プロダクションのクリスマスパーティー。急ピッチで飲み早々に辞し、「やまとなでしこ」最終回を観ながら追加で飲み

19日:部の忘年会と二次会

20日:美人揃いだったチームのメンバーと、表参道のイタリアンでクリスマスディナー

21日:退社して九州に行く元部下を渋谷の沖縄料理店で個人的送別会

22日:30人ぐらいで飲みながら徹夜麻雀大会

23日:友人一家とクリスマスパーティー

24日:同上

25日:渋谷の和系バーで飲み

26日:新宿の安飲み屋とジャズバーで同僚と飲み

27日:芸術劇場で第九演奏会のあとオールナイト

と。。思い出のやけくそな年末^^; いちおう会社にも行って仕事してたんですけど。。

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思い出の年末(1)

友人からのプチ忘年会のお誘いメールをもらい、そのなかに

「いつもブログにコメントを書こうと思ってますが、割と濃いネタが最近続いておりコメントできずにおります・・・」

とのメッセージ。まったく、最近は、コアクラシックとウルトラセブン、たまにのだめと、コメントしようにもしようがないですよね。ほんとに。さらに、こういうネタを書くときは、参考資料をたくさんひっぱってきて、ファクトチェックしながらになるので、だんだん自分でも気楽に書けなくなってたりして。。。

ところで、いよいよ自分の鬼門の11月もあと1日、嫌いな寒い季節では唯一好きな12月がやってきます。

年内仕事の切迫感、オフィシャルな忘年会に加え友人との忘年会、クリスマスに年賀状、(個人的には第九演奏会、墓参りに温泉。。)と、そんなカウントダウン気分はなんとも高揚感がありますよね。

というわけで、今日は「薄いネタ」として、そんななかでも、とくに印象深かった年末について書いてみます。

★☆★☆★

25歳の7月に音楽雑誌の編集者になった。いきなり毎日昼に来て夜中まで、連日ライヴ、土日もアーティストの取材、という忙しい日々になったけれど、未知のわくわくするような世界が一気に拡がった。覚えることばかりで大変だったけれど、それまで好きで読んでいた雑誌を自分で創る、という仕事を楽しみまくっているうちに、あっという間に年の暮れ。。

雑誌のリニューアルと年末進行で毎晩徹夜続きのなか、レコード会社の派手な忘年会にも連日出席。。。そんな目の回るような勢いで迎えた仕事納めの日は、音楽業界の面々を呼んだ編集部の忘年会のあと、23時からおニャン子の高井麻巳子さんのカウントダウン誕生日パーティーに同僚と参加。

関係者で0時を迎え誕生日になって本人にお祝いをし、かなりワインを飲んで1時頃に散会。会場をあとにして表参道の街に出ると、初雪がちらちらと降ってきた。。バブル前夜、しかも年末とあってタクシーもほとんどいなく、傘もないなか同僚とやっとつかまえたタクシーに乗って、2時頃に帰宅。翌日昼に目を覚ますと、辺りは一面の雪景色だった。

憧れた雑誌編集の仕事を通じて、音楽業界にどっぷりとつかって過ごした半年を締めくくるのにふさわしい、ドラマのような年末でした。。。

(続く)

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M先輩の朝顔

5月27日に、昨年若くして亡くなったM先輩の偲ぶ会に行った(↓詳細)

http://paienne.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/m_f289.html

このときに、主催者のM家の方より、「Mが毎年植えていた朝顔を、今年は皆さんで育てて下さい」と、朝顔の種をいただいた。そんな訳で今年は、小学校以来、ベランダで朝顔を育てている。

色とりどりの花が咲くこととか、朝咲いたのに夕方にはしぼんでしまうとか、つるが伸びすぎるて行き所がなくなってしまう様子とか、数十年ぶりの気付きが、新鮮だ。

大きく咲いた朝顔の花が、憧れだった天国のM先輩に届いているといいな。(少女コミックふうにまとめてみました(^^;

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M先輩を偲ぶ会

先週の土曜日は、亡くなって1年になるM先輩を偲ぶ会に行って来た。M先輩は、まだ58歳だった。

私が大学卒で入った出版社の15歳上の先輩だった。出版・編集・音楽のこともたくさん教わった。が、何よりもM先輩は、会社のテニス部の部長で、中学から中途半端にテニスをやっていた私を多いに鍛えてくれた。

同年代の人からは、孤高の人と思われていたようだったが、我々後輩には、ほんとに気さくな先輩だった。しばらく患っていた病気が回復し、会社も定年前に辞め、これから自分の人生を生きる、と最後に話を聞いたのが、一昨年の春。それから1年後に突然知らされた、全く別の病気による死だった。

だから、病状の重い先輩を見ていないから、未だに信じられない。今にも颯爽とした格好でテニスコートに現われ、得意のフラットなサーブやストロークを見せてくれるような気がしてくる。

偲ぶ会では、追悼文集が配布された。思いを込めて寄稿した私の文章も掲載された。会場の新宿・野村ビルを出ると、鉛のような空から、細く冷たい雨が降っていた。

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